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中野正貴『東京窓景』河出書房新社刊 より
窓からの東京考察(その1) 2003年10月
三ツ又に分岐する首都高速のジャンクションの際に建つペンシルビルの七階の窓から、茫洋とした面持ちで此方を見つめる初老の紳士が見える。魂を飛ばして彼の視角を覗き込む。
1分に20mの匍匐前進を繰り返す数珠繋がりの渋滞の列の中に、黒い僕のワゴンを発見する。180°反転して見える眺めは、なるほど無秩序な東京の典型的混沌風景だ。
日頃我々は一日の大半を部屋という囲われた空間の中で過ごし、都市の風景を内側から見つめている。それは自宅の窓からであったり、移動中の車や電車の窓からであったり、職場の窓からだったりする。風景を映画館のスクリーンやハイヴィジョンテレビの大画面を観るのと同様に、フレーム(額)付きの映像として無意識のうちに知覚しているはずなのだが、意識に残った記憶の風景の中にフレームは存在しない。
人間の目は全く利巧に出来ていて、必要な情報以外は自動消去装置が勝手に作動し不純物をカットするよう常時設定されている。確かに視角内に存在していた筈のアルミサッシやクロスワイヤー入りガラス窓等、居住空間の狭い東京の小さな窓には必ず登場する必須アイテムも見あたらない。
そこで、意識の中にフレームを戻してみた。
窓からの東京考察(その2) 2004年8月
鈍色に凝血した都市の表皮が痛々しく捲れ上がり、東京の体内に一度はその身を葬られた夥しい量の土塊が、時を経て“再生”の名の下、炎天の地に荒々しく引き摺り出される。ぽっかりと蓋を開けたまま虚空を見つめる巨大な空洞は、「都市の墓穴」だ。
隣接したビル窓の金波銀波の反射光が、その薄暗い墓底に幾重もの格子模様を映し込む。期間限定のシュールな東京風景。
変幻自在、多面多様に膨張を続ける予測不能都市「東京」を捉え理解しようとする時、僕は何時も敢えてシンプルな制約やルールフィルターを都市に当てはめてみる。
封じ込めようとしても其処から逃れ、零れ出してくるエキスを掬い取り吟味する。言い換えれば、濾過することで東京のエッセンスを抽出するわけだ。
そこに立ち現れる都市の様相は、世界中の欲望を一手に引き受け、丸呑みし続けた和魂洋才、混在混血の奇妙な光景と、居住空間の内的充実を断念し満足されないまま外に流れ出した欲望が、大通りで交錯したジレンマの空間。人生背負った“劇場都市東京”だ。
此の物語は何幕目まで進み、如何なる終幕が描き定められているのか? 此れは発展途上の変容なのか、荒廃し追い詰められた最後の一手なのか? メガロポリスなのかネクロポリスなのか?
芝居掛かった妄想的憶測が僕の頭の中を駆け巡る。
窓からの東京考察(その3) 2004年9月
稚拙なリズム感のドラマーが叩き出すヘビメタサウンドが、重低音を効かせ過ぎたスピーカーから流れ出す時の様な異様な震動が、銀灰色の窓枠にジンジンと伝染する。
眼下20m下の工事貯水槽に満満と張られた水の表面が、縦揺れか横揺れか、迷った挙句に渦を巻く。傍らの路面に描かれた矢印が何度も修正を加えられ、何処に進めば良いのか理解不能な方向を指し示す。「この先カーブあり」のこの先が判らない。
東京の不安や恐怖は、既に肉眼のセンサーでは感知出来ない異次元の領域で進行している。それは一見普通に見える日常の風景の中を悠揚と漂っている腐食物のようなものなのかも知れない。メディア環境の発達につれ、人々はパソコンや携帯電話の画面の中の二次元的風景に、より親近感を覚え始めた。内側へ内側へと浸食する腐食物は、人々の現実感を鈍麻させる。虚構から虚構を創り出すその根拠のない連鎖反応は、人々をニヒリズムへと導く。
いつの頃からか我々東京人は、混沌とした都市全体を正視することを拒否した。自分の目に見える範囲で奇異奇妙を語っていられるうちは平和だとも言える。
だが、僕はもう一度確認しておきたかった。
人間の欲望が蠢く都市のエネルギーと個人が自分の世界を守り築こうとする偏執的エネルギーが交錯する場所、その臨界風景を通して東京を考えてみたかった。そして何よりも、視点を変えることで
見過ごしていた風景 に新鮮さを感じ、もう一度「東京」が好きになれる気がした。
協力:工藤隆




































































































